Rさんが教えてくれたこと
皆さん、こんにちは!かたりば編集長の北井です。
今回は、日頃医者として地域医療に携わるも「医者という看板が苦手やね~ん!だって医者と分かったらみんな言いたい事も言えんくなるやん?」という独自の持論を展開する太城先生からのお話です。あ、いや、リョウコさんか(笑)
リョウコさんは初見から個性の塊で、知識だけでなく、相手の懐に入る柔らかさと圧倒される行動力を兼ね備えており、良い意味で「本当に医者か!?」と感じるほど気さくなお姉さん的存在です。
さて、私にとっての新たな姉弟が誕生したところで、早速リョウコさんからお話をいただこうと思います。
はい、ご紹介いただきましたリョウコです。
今日は、大切な出会いについて書きますので、ぜひ読み進めてください。
登場人物はRさん(以下、彼)と私です。
彼とは、北アルプスの常念岳から西岳までの、裏銀座の尾根線歩きで出会いました。
絶景を楽しみながら、一人すたすた歩いて行くと、ゆーっくり歩くアラフィフくらいの巨漢に追いつきました。巨大なザックを背負いながらも、時々派手につまづくので、私は気になってそれとなく後ろを歩いていました。
休憩ポイントに到着すると、私の方から自然と声をかけていました。
色んな話をしていく内に段々と仲良くなって、
・毎年大きくなる脳腫瘍がある事
・足の指が動かない事
・家族もそれで亡くなった事
・だからこそ今のうちに登っておきたい事
・仕事は自衛隊を経て、ボディガード。武道の指導もやってきた事
などがわかりました。
夜は同じ西岳小屋泊で、彼はテントでしたが若者たちがうるさくて、
「こらー、俺が睡眠不足になってけいれん起こしたらどうしてくれるんだ~!!!」
と怒鳴りにいったそうです。
(テントの人たち、怖かっただろうな…苦笑)
その後、彼は槍ヶ岳に登頂。
先に降りていた私が安否確認を買って出たのをきっかけに交流が始まりました。
翌年の夏、我が家に長女が誕生した時には、お祝いのカードと「赤ちゃん用に」と可愛い団扇を送ってくれました。
字は、どうしても「る」だけが書けないそうですが、病気に負けたくなくて毎日8km歩いている事が書かれていました。
その年の秋、黒部峡谷単独行で迷って、仕方なく野宿したそうです。
翌々年、何度目かの開頭摘出手術を受けた事で、仕事は辞めていたそうです。
その際、手帳申請を医者に依頼したもののなかなかできず、ひどくお怒りのLINEが私の所に来ました。
彼のお気持ちを察した上で、医者の方も大変である旨、会った事もない医者の言い訳をしている自分がいました。
我が子が2歳になった頃、彼に会いに行きました。
久しぶりに見た彼の片足は麻痺し、ロフスト杖を使用していました。
駄菓子屋さんで子供のほしいお菓子をカゴいっぱい爆買いさせてくれました。
地元の名物『あんかけスパ』をごちそうになりながら、
・作業所に通っているもうるさい人がいたのでブチ切れた事
・収集がつかなくなって大変になった事
を聞きました。
自分でも怒りのコントロールが難しいのが分かるそうで、
「俺は高次脳機能障害だ。でも、俺はこんな俺が好きだ~!!!」
とにこやかに話す姿が印象的でした。
冬に入ってからはLINEの返信が来なくなり、どうしているかと思っているうちに訃報が入りました。50歳でした。
思えば、病院の外で出会えたことは本当に幸運でした。
医者と患者として出会っていたら、こんな風に彼の事を知れたとは思えないです。
利害関係ができて、彼からは診断書遅いと怒られ、私は専門職として適度な距離を保って接していた事でしょう。
彼もどこまで自分の事を教えてくれたか…。
彼の生きる姿を間近に見られて、言葉のひとつひとつをそのまま受け取れたのは、かけがえのないものと感じています。
山で出会った時、
「病気になってから、花に気が付くようになったんだよね」
と話してくれました。
彼の命日である2月には、寒さの中でも懸命に咲いている花々をみると、この言葉を思い出します。
時に思いもよらない出来事に翻弄されつつ、限られた時間を生きるものとして、彼との出会いは、私に強烈なメッセージを残しました。
彼は、私にとって、師であり、恩人であり、もしかしたらおじさんの姿をしたエンジェルだったのかもしれません。
彼のようにはいかなくても、それぞれの状況の中で、少なくとも自分の納得のいく行動を選びたい、結果に関わらず、そんな自分をあたたかな眼差しで見つめていたいと願います。
そして、彼が全力で生きてきた世界を、現在進行形で生きていられる事に思いを馳せ、日々の格闘に勤しみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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